鎌倉の山城残る大橋城 解  説
種別 町指定<史跡>  鎌倉時代、今から800年余り前、筑後守平家貞は、平清盛の一族で平家に仕えていたが、肥後の国の代官として治承(1181年)寿永(1182年)の内乱で挙兵した緒方、菊池氏の討伐に下向し、大橋氏を名のって居城を山城にかまえた。
 家貞の子貞能は平氏の中でも有名をとどろかせ、筑後で鎮西の逆走を追討したこともある。
 貞能の子大橋狭ェ門貞経は源頼朝に降参したが、その後他人の讒事に合い文治2年梶原景時に攻められ、捕まえられて鎌倉の牢に入れられた。貞経の子通貞(摩仁王丸)は鎌倉の頼朝に会い、父が無実の罪であることをのべ、許されて大橋城に帰った。
 小高い山全体を城とした平城である。合志川と山城川、これを利用した水堀跡が残っている。「五郎丸屋敷」という地名があるが、この付近が城跡であろう。
所在地 田底字山城(大橋城跡)
【「いろは歌解説書」より引用】
 著:大橋幸雄氏


いろはカルタ 【か】
読み札 取り札
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