☆田原坂☆

田原坂 田原坂は、植木台地が玉名方面の平地に突出した舌状台地の先端にあり、平地との比高差は60〜70mで、小谷が入り込み複雑な地形をなし、その尾根に開かれた玉名方面より植木・熊本地方に通じる重要な道路であった。
明治10年(1877年)政府尋問の為、北上した薩軍の一部は熊本城を囲み、主力は北上して熊本鎮台救援に南下する政府軍と高瀬(玉名市)で交戦し、利あらず退いて吉次・田原坂・山鹿の線で南下を阻止した。
当時田原坂は高瀬より熊本に通じ、砲隊が通過できる唯一の道であり、薩軍はここに陣地を設け、3月4日より3月20日まで南下を阻止する戦いが行われた。政府軍は、田原坂付近の戦いで、一日平均32万2千発余りの小銃弾を使い、死傷者も2百人近くもあったといわれている。
現在、坂の頂上付近は公園となっており、明治13年に建立された崇列碑や、西南戦争で戦没した官・薩両軍の氏名を記した慰霊塔・資料館などがある。
 
 
一の坂
二の坂
三の坂
麓の豊岡眼鏡橋からの標高差は僅か80mの田原坂。
少年像    
慰霊塔 (七元官軍墓地)、(薩軍墓地)には、この田原坂の戦いで散っていった多くの兵士たちが、眠っています。   
田原坂資料館 田原坂公園内にある西南の役の資料館で、当時の写真や遺品が数多く展示されています。戦いで使用された銃器、戦況を伝える電文、錦絵ほか、小銃段同士が空中で衝突した『空中かち合い弾』は、激しい戦いを忍ばせる貴重な遺品となっています。   
弾痕の家 (復元) 田原坂資料館の隣にある土蔵ずくりの家は、無数の弾痕が残り、戦いの激しさを物語っています。
七本官軍墓地 明治10年(1877年)西南戦争で戦死した政府軍の軍人、軍夫、警察官を埋葬した官軍墓地
官軍墓地は、他に県内21ヶ所ある
墓碑には、階級、氏名、所属隊名、戦死した日、場所及び出生地などが刻まれている。
ここ七本官軍墓地には、熊本鎮台14連隊所属の河原林少尉ほか、植木、滴水及び木留などの戦闘で戦死した東京、大阪、名古屋、広島及び熊本鎮台の兵士300余名が埋葬されている。
七本柿木台場薩軍墓地 明治10年(1877年)の西南戦争には、熊本からも熊本隊、協同体などが参加した。この周辺の戦いは、3月初めから吉次、田原坂付近で戦われている。3月20日田原坂の戦いが終わると、吉次、木留、植木などを中心に戦われた。
この七本柿木台場薩軍墓地には、3月14日七本で戦死した熊本隊3番小隊長の城市郎ほか、この周辺で戦死した薩軍311名が埋葬されている。
玉東町原倉にも薩軍の墓がある。
 
西南の役年表  西南の役年表  
薩摩塚(古塚) この塚は、かつて旧植木町役場入口と国道三号線との交差点付近(植木町大字一木字西屋敷3番地)に建てられていた。戦国頃の島津との戦いにおける戦死者を葬ったと伝えられる塚がかつてここにあったと言う明治十年の西南の役における薩軍戦死者二十名が、戦後地元住民の手でここに合葬された記録が残っている。
その後遺骨の一部は遺族の手に引き取られたとの説もある。のち土地所有者松永勇氏により この石碑が建てられた。昭和四十三年三月バイパス道新設のため撤去されることとなり田原坂公園内に移され現在に至っている。